2017年1月19日木曜日

援助は施しか

「○○ちょうだい、○○買って」ということはケニアにいると、よく言われる。
子供から大人まで。
これまでも軽く流していたが、今でもやはりあげようとも、買ってやろうとも思わない。多分、自分の中に等価交換の原則みたいなのがあるからだと思う。何かを得るためには何かしなくちゃいけないってこと。実際に、この研修に参加するために必死にバイトしたし。だから、どんなにボロボロの服着ていようが、困難な状況なんだと言われようが、何もしない。というか、何もしてあげたくない気持ちの方が強い。きっと、そうやって外国人なりお金持ってる人に訴えれば、お金がもらえるという一種の甘えみたいなのができてしまって、自立ができなくなると心の中で思ってるからだ。そして僕は、たまに「なぜ、僕が君にお金をあげたり、ジュースを買わなくちゃいけないの?」と尋ねる。すると、彼らはだいたいこう答える。「だって、日本は発展してて、ケニアにたくさんもの(援助)をくれるじゃん」。うん。確かに。間違っていない。じゃあ、このギャップはなんだろうか。
まず、共通して言えることは、相手のことを想っての行動だということだ。僕の場合は、彼らが自立できなくなるということ、一方は、彼らは可哀想な状況にあって支援が必要だということ。行動の起点は相手のことを想っているのに、実際の行動は異なってしまう。なぜなのだろう。(続く)

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